おしゃべりのようなもの

記録と記憶です。

ながめくらしつ「…の手触り」〜日常の手触り〜

ながめくらしつ連続公演「…の手触り」〜日常の手触り〜 を観ました。

 

今回で最後の作品となる「…の手触り」シリーズ

観終わった今、とても名残惜しい気持ちでいっぱいです。

ついに、終わってしまったのか…。

 

 

シリーズ最後の作品である 〜日常の手触り〜 は、2台ピアノのミニマルミュージックと2人のジャグラーによる作品でした。

 

難易度の高いジャグリングの技や、滑らかな身体の動きは美しく、時には美しさに自然と涙がこぼれ、時にはただただ楽しくて笑みが溢れてしまいました。

微妙にずれながら進み始める…ボールを投げ上げたかと思えば、反対の手になる、高さが変わる…そうやって進んでいくうちに、ユニゾンになったり、ソロになったり、後を追ったり、近くまで行くのに触れ合えなかったり…たくさんの要素が絡み合い、止まることなく進むその時間、終始目が離せませんでした。

高度な技が多く組み込まれているだろう演目ですが、二人は靴下でリノの上を静かに歩き、這い、移動するので、音はほとんど音楽のみ。全ての動きが自然と移り変わり(ほとんどの場合ずれながら)、美しい、と何度心の中で思ったか…そんなパフォーマンスでした。

 

また、音楽は、素晴らしい奏者のお二人によって、いくつもの美しい旋律が奏でられ、(合わさることにより)初めて聞くメロディーがたくさん聴こえたり、息を飲むほど幸せな旋律、祈るような気持ちで続く旋律…言葉で表すと途端に何か足りない気がしてしまうのですが、私の知る「ミニマルミュージック」にはなかった、旋律の美しさと、絡み合うことで生まれる幸せな瞬間や愛おしさ、切なさ、緊迫感…あらゆる感情を感じられる曲でした。

イーガルさんの曲はどれも大好きだけど、今回の曲が生まれて、私は本当に幸せです。

 

 

今回のシリーズの作品は、〜昨日の手触り〜、〜こころの手触り〜、〜日常の手触り〜この3つのタイトルで、本来はあともう一つの「手触り」があったということですが、8月の初演が流れてしまったためこの世界には生み出されずに終わってしまいました。

 

どうしてもこの連続公演は、世界の情勢は切り離して考えることはできなくて、特に今回の「日常」と言うタイトルの重さに、私ははじめ、負けそうになってしまいました。

 

自分にとっての日常…洗濯をして、食器を洗って、掃除をして、仕事にいき、こどものお世話をして、夜眠る。

こんななんてことない平凡な毎日は紛れもなく私の日常で、何より手触りを強く感じる事柄でもあります。そんな中で改めて「日常の手触り」というタイトルの作品を見ることになり、「さて、日常とは…」と、今日を迎えるまで考える日々でした。

 

さっき言ったような、洗濯や掃除などのありきたりの毎日のことではない気がして、「ではこの場合の「日常」とは何だろう。」と…。

 

パフォーマンスをする人たちの「日常」

観に行く私たちの「日常」

その共通言語は紛れもなく「作品」で

日常の手触りとは、「作品を観る空間」そのものではないかと思いました。

 

パフォーマンスをする人がいる。音を奏で生み出す人がいる。

届けるべくして作られた作品たちは、観るために足を運んだ私たちに届けられる。

その行為の全てが確かな「手触り」として私たちに感覚として残り、そんな宝物のような空間が「日常」なんだと思いました。(宝物=日常って変だけど、観る人、演じる人にとっての日常は、そうなのかもしれないという私の解釈です。)

 

日常=日常、日常≒日常、日常≠日常 

そのどれもがあてはまる今回の作品。

特に、情勢を考慮して他県の方々が観劇できない中での公演は、皮肉にも完全なる「日常」とは言い難いことになってしまいましたが、公演中のおよそ45分間は、確かにパフォーマンスをする彼ら、囲んで観る私たちにとって、ほんの少しだけ日常が戻ってきたように感じました。

 

 

山村佑理さんのジャグリングのなかで、ボールを積み重ね、身体に乗せるソロがありました。

その不安定さが現在の情勢と重なり、なんとかバランスをとる様子が、この情勢下でどうにかして日常を送ろうと必死な私たちの真理を表しているように思えて、心に来るものがありました。

ですが、崩れることなくバランスを保っている様子に、どこかほっとした気がして、落とさないで欲しいと祈った自分と、落とさなかった佑理さんに、感謝の気持ちがわきました。まだ、保っていけるんじゃないか、と。

 

そして、目黒さんが床を転がるシーンでは、どこか日常の中でもがくような、なんだか言葉に出さずに耐える様子に、観ていて苦しい気持ちになって、涙が出ました。

 

 

 

美しかったシーンや、ボールの動き、床に並ぶボール、移動する二人、音、旋律、ピアノを弾く二人の視線、指の動き、手の跳ね上がり…目を閉じればたくさん浮かびます。

そのどれもを、言葉にして感想として残せない自分の言葉の少なさに寂しい気持ちがしますが、今後この作品が、映像や、再演を通して多くの人に届き、より確かな日常として帰ってくることを心から祈ります。

 

パフォーマー、奏者、全ての皆様の天職であり、祈りであるこの作品が、本日沼津ラクーンという場所で、かけがえのない時間として公演されたこと、その場所に入れたことを幸せに思います。

 

ありがとうございました。

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