おしゃべりのようなもの

記録と記憶です。

あしたの劇場 世界をみよう!2021年スペシャル「ひとり、ひとり」

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ひとり、ひとり

 

座・高円寺の、あしたの劇場「世界をみよう!」2021年スペシャルの作品「ひとり、ひとり」、初日を観てきました。

新作に新曲。どんな作品かほとんどわからない(大きな壁を作った、くらい)で観に行くのはとても楽しみでした。

公演は4日間。まだ公演もあるので、作品の内容には触れないよう少しだけ感想と記録を残したいと思います。

 

この「あしたの劇場」は、年齢や国籍を問わずに楽しめるというコンセプトがあるとのこと。会場にも、こどもたちが多くいました。

最前列に座ったちいさなこどもたちは、ボールが宙に浮かんだ瞬間、「すごいよ!」というようなキラキラした眼差しでお母さんやお父さんを振り返ったり、動くボールをじっと見つめていたり。このキラキラした瞳って、本当にいいですよね。(私も一児の母です)

 

「年齢や国籍を問わずに楽しめる」というコンセプトは、一見すると「こどもも楽しめる作品(わかりやすいもの)」、と捉えられがちですが、私は本作のような「(今まで)知らなかったもの」や「不思議なもの」を観る経験って、大人にとってはもちろんですが、こどもにとっても、いわゆるわかりやすくおもしろいものを観ることより、ずっとずっと刺激的なことなのかな、と思います。そしてそういったものを生で観られる経験って、とても大切だなと思います。

作品の中では、拍手をするようなポイントはなく、大きな音も鳴りません。(実は大きな音が鳴らないって、すごくあらゆる人にとって優しいことだったりするのかなと思います)

ですが、

あ!すごいな、とか、

音楽が綺麗だな、とか、

おもしろいポーズだな!、とか、

不思議な動きだな、とか、

ボールは何個かな?、とか、

壁の後ろを見てみたいな、とか、

男の人が汗いっぱいかいてるなあ、とか、

今日の夕飯はなんだろう、とか…笑

そんなちいさな驚きや、疑問、興味、関心、

ちょっとだけ作品と関係ないことも含めて、

30分の間に様々なことを感じられると思います。

照明やボール、演者の動きと一緒に、様々なこころの変化があったはずです。

こういったこころの動きを素直に感じられる経験って、いくつになっても必要で、こういう問いが残る作品を見ることで強く感じられるのではないでしょうか。

 

同じくらいのこどもがいるからか、作品を観るこどもたちの反応に目が行きます。この作品が、多くのこどもたち、そしておとなたちに届いていることって、本当に素敵なことだなぁ。

 

私も次は娘と一緒にこの作品を観劇する予定です。

自分の大切な人と、「ひとり」と「ひとり」について感じたい。人と人の関わりを見て、どんなふうにあなたは感じるだろう?作品を観たあと、あなたに初めて触れるとき、私はどんな気持ちになるんだろう?あなたはどんな気持ちで私に触れてくれるかな?

娘が作品を観て何を感じるのか、今からとても楽しみです。

そう思えるのも、「こう観なければいけないということもなく、あなたが観て感じた全てを大事にして」という作品の想いがあってこそに思います。

 

いい作品を観られてよかったです。

そして、本作もイーガルさんの曲が素晴らしかったです。素敵だったな。

【配信作品】ながめくらしつ「…の手触り」〜日常の手触り〜

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「…の手触り」〜日常の手触り〜

 

「…の手触り」〜日常の手触り〜の配信を無事に観終えました。3作品全てが、ひと段落、ですね。とても好きな作品が、静岡で生まれたんだなぁと改めて思いました。(生まれたのはCouCouかもしれない笑)

 

配信作品のいちばんはじめ、ボールキャッチで外部音が消えるところ、すごく好きでした。そして、映像ならではの視点の移り変わりや、近距離で見られるジャグリング、ピアニストのおふたりの表情も、素敵だったな…!自分で生で見ているときとは違う場所が映ると、配信作品の良さを感じます。

あと、配信作品でも座席が置いていることに「日常」を感じました。

 

 

私がはじめてながめくらしつをみたのは、「心を置いてとんでゆく」の限定配信で(いや、YouTubeで「君がしじまに」とか「距離の呼吸」のダイジェストはみてたかも?)、はじめて作品を観たとき、音楽とパフォーマンスが対等で、こんなに不思議で綺麗なものが世の中にあったんだなぁって思いました。この作品をつくった人の頭の中が覗いてみたいなぁって思いました。
そして、ながめくらしつの音楽をつくっている人を知ったとき、この作曲家の音楽をずぅっと先まで残していかなきゃって思いました。残って欲しい、知ってほしいって思いました。

そうして、いつか生で観たいと思ったながめくらしつの作品を、この情勢下に静岡でみられることになった…、それが「…の手触り」〜昨日の手触り〜でした。

 

 

”現代サーカスには「問い」がある。”

〜昨日の手触り〜、〜こころの手触り〜、〜日常の手触り〜 この3作品を沼津ラクーンと映像作品で見届けて、私の中に残った「問い」は、
「私にとって大切なものはなんだろう?」です。

 

現代の「触れられない」日々の中で、「なにか…の手触り」を無くして、探して、求めたこの1年。いのちを奪われないよう必死に生きる中で、私にとっての大切なものを常に考えてきました。そして今も、考え続けています。

丁寧に投げ、並べるボールのように、私が丁寧に触れたいモノってなんだろう?

触れられない、目に見えない音のように、私が大切にしたいモノってなんだろう。

 

この3作品は、演者同士が一度も触れ合いません。
触れられないモノの手触りってどんなでしょう?
そして、まだ触れたことないその手触りは、いったいどんなですか…?

 

 

 

自分にとってはじめてのものやわからないものを観ること、「問い」のある作品を観ること、観た後に残る不思議な感覚。それらすべてが、大人だけでなく、こどもや、さまざまな方の目に届く機会があればいいなぁと強く強く思います。そのきっかけとして、この…の手触りシリーズが多くの方に届いたらいいなぁ。

 

音声ガイド版のこころの手触りも含め、3作品、すべて好きでした。大切な作品です。

こんなふうに、自分の好きなものについて語るとき、自分の熱量に迷ってしまいますが、結局は、好きなもののことは、好きとしか言えず、きれいは、きれい。すきは、すき。なんだと思います。

 

私のすきが、これから先もずっとこの世界に残り続けますように。

 

 

昨日の手触り

vimeo.com

 

こころの手触り

vimeo.com

*音声ガイド版

theatreforall.net

 

 

日常の手触り

vimeo.com

 

 

「〜の手触り」シリーズ、感想もひと段落です。

最後は、思い出回想みたいな感想になってしまいましたが、かけてよかったです。

 

 

3作品に関わったすべての皆さま、ありがとうございました。

 

ながめくらしつ「…の手触り」〜日常の手触り〜 at CouCou

日常の手触りの再演を観ました。

とても良かった。

2台ピアノのミニマルミュージックに、ジャグラーが2人。2月の沼津での公演と同じメンバーでの再演。

沼津では1回だった公演ですが、今回は2日間にわたり、きっちりと2回(しかも別方向から)見られたことで、より好きな動きや愛おしい箇所がたくさん増えたような気がします。

 

好きな箇所はいくつもあります。

全てあげると、マニアックになってしまうけど。

(1回目の椅子を並べてやるシーン。その最後のバシッとボールキャッチ、からの余韻。佑理さんがボールの上でバランスを取るところ。二人羽織とそのあと。各所のユニゾン。目黒さんのソロ、少し笑みを浮かべながら動き回るジャグラーたち…AZUMIさんをみるイーガルさんの目、AZUMIさんの跳ね上がる手、キラキラした3連符、メインテーマに戻るときの空気感、目黒ソロのメロディー、一番最後のイーガルさんの音…などなど)

 

冒頭にたった1回のボールのパス。座ったまま投げ上げるボール。様々な変化。

それぞれの人の動きとボールの軌道が、次はどこへ行くのかなと、ただただ目が離せなくなります。

2台のピアノが混ざり組み合わさり変化を続けていく。

誰も同じことをしないのに、同じ作品の中で絡み合う。

パフォーマーの方々にとっての日常は、いまだに完全には戻ってきていませんし、観る私たちにとっても戻ってきていません。

 

好きなものを、好きなところへ行って観る。

「来てください!」「行きます!」

「観てください!」「観ました!」

そんな言葉が自然に交わせない世の中です。

 

マスクをしていなかった頃のこと、だんだんと思い出せなくなり、大きな声で笑いながら集まったその頃のことを、懐かしく思うようになりました。

会いたい人に会えない理由が、距離なのか、タイミングなのか、時世によるものなのか、ウイルスなのか。守りたいからなのか、突き放したいからなのか。本当の理由も見えなくなってきました。

一人でいるとほっとする瞬間と、人といるとほっとする瞬間が入り混じります。

 

そんなざわざわした心持ちでも、つくる人はつくり続けてくれて、作品を生み出してくれます。

そんなざわざわした情勢でも、美しい作品が、確かにここに在ります。

 

「現代サーカスには『問い』がある」ときいてから、作品を観た後、自分のこころの動きに正直になるようになりました。

 

ジャグリングの美しさ、おもしろさ、

音楽の美しさ、おもしろさ、

夢中になって見入ってしまうこの作品がとても好きです。

そして、日常の手触りを観てから、少しだけ悲しくなり、涙が溢れる瞬間があります。

 

その理由を探しながら、あと98公演、見届けられますように(笑)

 

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このような機会をくださった出演者、企画・制作の皆さま、会場のCouCou酒井さん、本当にありがとうございます。

 

そして、この素晴らしい作品をつくった目黒さん、素晴らしい曲をかいたイーガルさん、ありがとうございます。

お二人の使命感・天職ともいえるこれらの”仕事”が、祈りとともに、この先もずっと残り、多くの人の目に届きますように。

 

ながめくらしつ「…の手触り」〜日常の手触り〜

ながめくらしつ連続公演「…の手触り」〜日常の手触り〜 を観ました。

 

今回で最後の作品となる「…の手触り」シリーズ

観終わった今、とても名残惜しい気持ちでいっぱいです。

ついに、終わってしまったのか…。

 

 

シリーズ最後の作品である 〜日常の手触り〜 は、2台ピアノのミニマルミュージックと2人のジャグラーによる作品でした。

 

難易度の高いジャグリングの技や、滑らかな身体の動きは美しく、時には美しさに自然と涙がこぼれ、時にはただただ楽しくて笑みが溢れてしまいました。

微妙にずれながら進み始める…ボールを投げ上げたかと思えば、反対の手になる、高さが変わる…そうやって進んでいくうちに、ユニゾンになったり、ソロになったり、後を追ったり、近くまで行くのに触れ合えなかったり…たくさんの要素が絡み合い、止まることなく進むその時間、終始目が離せませんでした。

高度な技が多く組み込まれているだろう演目ですが、二人は靴下でリノの上を静かに歩き、這い、移動するので、音はほとんど音楽のみ。全ての動きが自然と移り変わり(ほとんどの場合ずれながら)、美しい、と何度心の中で思ったか…そんなパフォーマンスでした。

 

また、音楽は、素晴らしい奏者のお二人によって、いくつもの美しい旋律が奏でられ、(合わさることにより)初めて聞くメロディーがたくさん聴こえたり、息を飲むほど幸せな旋律、祈るような気持ちで続く旋律…言葉で表すと途端に何か足りない気がしてしまうのですが、私の知る「ミニマルミュージック」にはなかった、旋律の美しさと、絡み合うことで生まれる幸せな瞬間や愛おしさ、切なさ、緊迫感…あらゆる感情を感じられる曲でした。

イーガルさんの曲はどれも大好きだけど、今回の曲が生まれて、私は本当に幸せです。

 

 

今回のシリーズの作品は、〜昨日の手触り〜、〜こころの手触り〜、〜日常の手触り〜この3つのタイトルで、本来はあともう一つの「手触り」があったということですが、8月の初演が流れてしまったためこの世界には生み出されずに終わってしまいました。

 

どうしてもこの連続公演は、世界の情勢は切り離して考えることはできなくて、特に今回の「日常」と言うタイトルの重さに、私ははじめ、負けそうになってしまいました。

 

自分にとっての日常…洗濯をして、食器を洗って、掃除をして、仕事にいき、こどものお世話をして、夜眠る。

こんななんてことない平凡な毎日は紛れもなく私の日常で、何より手触りを強く感じる事柄でもあります。そんな中で改めて「日常の手触り」というタイトルの作品を見ることになり、「さて、日常とは…」と、今日を迎えるまで考える日々でした。

 

さっき言ったような、洗濯や掃除などのありきたりの毎日のことではない気がして、「ではこの場合の「日常」とは何だろう。」と…。

 

パフォーマンスをする人たちの「日常」

観に行く私たちの「日常」

その共通言語は紛れもなく「作品」で

日常の手触りとは、「作品を観る空間」そのものではないかと思いました。

 

パフォーマンスをする人がいる。音を奏で生み出す人がいる。

届けるべくして作られた作品たちは、観るために足を運んだ私たちに届けられる。

その行為の全てが確かな「手触り」として私たちに感覚として残り、そんな宝物のような空間が「日常」なんだと思いました。(宝物=日常って変だけど、観る人、演じる人にとっての日常は、そうなのかもしれないという私の解釈です。)

 

日常=日常、日常≒日常、日常≠日常 

そのどれもがあてはまる今回の作品。

特に、情勢を考慮して他県の方々が観劇できない中での公演は、皮肉にも完全なる「日常」とは言い難いことになってしまいましたが、公演中のおよそ45分間は、確かにパフォーマンスをする彼ら、囲んで観る私たちにとって、ほんの少しだけ日常が戻ってきたように感じました。

 

 

山村佑理さんのジャグリングのなかで、ボールを積み重ね、身体に乗せるソロがありました。

その不安定さが現在の情勢と重なり、なんとかバランスをとる様子が、この情勢下でどうにかして日常を送ろうと必死な私たちの真理を表しているように思えて、心に来るものがありました。

ですが、崩れることなくバランスを保っている様子に、どこかほっとした気がして、落とさないで欲しいと祈った自分と、落とさなかった佑理さんに、感謝の気持ちがわきました。まだ、保っていけるんじゃないか、と。

 

そして、目黒さんが床を転がるシーンでは、どこか日常の中でもがくような、なんだか言葉に出さずに耐える様子に、観ていて苦しい気持ちになって、涙が出ました。

 

 

 

美しかったシーンや、ボールの動き、床に並ぶボール、移動する二人、音、旋律、ピアノを弾く二人の視線、指の動き、手の跳ね上がり…目を閉じればたくさん浮かびます。

そのどれもを、言葉にして感想として残せない自分の言葉の少なさに寂しい気持ちがしますが、今後この作品が、映像や、再演を通して多くの人に届き、より確かな日常として帰ってくることを心から祈ります。

 

パフォーマー、奏者、全ての皆様の天職であり、祈りであるこの作品が、本日沼津ラクーンという場所で、かけがえのない時間として公演されたこと、その場所に入れたことを幸せに思います。

 

ありがとうございました。

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【配信作品】ながめくらしつ「…の手触り」〜こころの手触り〜

 

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Might be in situ -the unseen- 「…の手触り」〜こころの手触り〜 

配信作品の【ながめくらしつ「…の手触り」〜こころの手触り〜】を観ました。

 

今回は12/26,27に沼津ラクーンで公演された同作品の動画配信版(別撮り)で、オリジナル版と音声ガイド版があります。 

生の公演については、公演を観た後に別の記事で書きましたが、今回の動画配信を観ることで、視点を変えて作品を観ることができたと思います。

 

安岡あこさんの、冒頭の糸の海にいるシーンでは、糸が体に絡みつき、身体を捻ったり、腕を伸ばしているシーンが配信だとより近くで見ることができて、美しさがダイレクトに伝わってきてとても綺麗でした。

 

そして、サノユカシさん制作の大きな壁のシーン。音声ガイド版での呼吸の音がとても印象的で、スー、ハーという呼吸に合わせて思わず私も一緒に呼吸をしてしまいました。とても好きなシーンです。

 

人形使いの長井望美さんが、人の形をしたモノを踊らせているソロのシーン。

その一つ前の壁のシーンからですが、撮影のフォーカスが人形よりも長井さんにあったことが意外でした(音声ガイドでも、髪を結んだ女性として長井さんの動きについて説明することが多かった気がします)。

私自身は、生の公演を観ていたとき、壁のシーンからずっと視点が人形の方にあったと思います。自然とそうなっていました。

動画配信では、最初は長井さんの動きにフォーカスを当てていたのが、この人形のソロのシーンを続けていくうちに、次第に、視点が人形へ移っていくようなつくりになっていたと思います。

その次のシーン、人形と人間が一緒に踊るシーンでは、撮影の視点も音声ガイドも、自然と長井さんではなく人形の動きに移っていて、自然な視点の変化が素晴らしいなと思いました。動画作品ならではの、「視点が制限されている状況」だからこそ、生とはまた違う面白さがあったように思います。

 

人形と人間が踊るシーンでは、あこさんがしゃがんで人形に向けて指を躍らせるシーンがとても好きです。お花が咲くようなパッとした指先の動作、あこさんの表情、どれも素敵でした。また、そこからふたりがいっしょに踊るシーン。そこのふたりの動きも、音楽もとても好きです。人形が取り憑かれたように踊るシーンも、好きだなぁと思いました。

 

たくさんの好きなシーンがあって、動画作品ではそれらのシーンを見返したり、音声ガイド版で観たりすることで、様々な楽しみ方ができます。

 

この作品のテーマでもある「変化と選択」は、実際に会場で観劇したそのときと同様に、動画配信作品を観るときでも、私たち見る側に委ねられ、選ぶことができるんだなあと感じました。能動的に観ることができる配信作品、とても面白いなと思います。

 

 

今回のように、この具体的に「ことば」にするのが難しい抽象的な美しさの作品を、音声ガイドとしてことばで表現し、わずか公演から1ヶ月程度で一つの作品として完成させたことが、すごいことだなと感じています。特にテキストをつくった藤原佳奈さんの言葉選びと、青柳いづみさんのナレーションは心を惹きつける魅力がありました。 

 

そして、オリジナル版に関しても、現地でみたときとは違った印象が新鮮で、視点の変化や細部の美しさが、映像ならではの良さとして浮き彫りとなっていて、音楽も美しく、クオリティーの高い映像作品となっているなあと改めて感じました。

 

今回の〜こころの手触り〜の音楽は、チェロソナタ。私は当日会場で聴いた、震えるように儚く、そのときにしか生まれなかった演奏が、いまだに忘れることができません。本当に美しく、作品全体を緩やかに後押しするような演奏は、あのとき世界中の人たちと共感できたらと強く思ったほどでした。

映像作品となった今も、この曲は一つの絵巻をぐるりと進めてくれるような役割を担い、物語をそっと後押ししています。旋律の美しさは、前回の作品〜昨日の手触り〜同様、さすがイーガル作品だなと思わずにはいられませんし、コミテツさんの線の細い儚い音色は物語の危うさや儚さを引き立て、時に意志の強い音色にかわった時には、演者の心の動きや決意を表し、表現を引き立ててくれています。

また、音声ガイド版となってもナレーションの声とのバランスも考えられているようで、細部までこだわっていてすごいなあと思いました。

 

今回、この「音声ガイド版」について、私は 「ノンバーバル(言葉や文字を使用しない)」のながめくらしつ作品に「ことば」がつくことで、どのようになるんだろうとわくわくしていました。作品をみて、想像を超える良さでとても満たされた気持ちでいます。

ながめくらしつ本来の言葉を使用しないことで伝わる曖昧な感覚や表現が、言葉を付けたことで新たな表現となり、全く別の感覚が観る側に生まれてきたように思います。

 

ことばがない作品を観ると、自分のこころの中心部分に感情や感覚がじんわりと生まれますが、ことばがつくと、そのこころの外側をそっと優しく撫でられて、外的刺激を受けることで自分の感情が助長され生まれる…そんな感覚になります。

作品をみて感じること…あたたかさ、もどかしさ、切なさ、苦しさ…それらは生で観ても、オリジナル版でも、音声ガイド版でも、同じように心の中に生まれますが、ただ、それらの「質感」が自分の心に違ったかたちでやってくるように思いました。

 

元々は、視覚障害を持っている方でも楽しむことができるための音声ガイドだったと思いますが、今回の音声ガイドのように、ただ状況を説明するだけでなく、数々のことばを付けたことによって、全ての人が楽しめる新しい作品になったと思います。この作品を言葉付きで観ることができてとてもよかったです。

 

 

私は、今回のテキストをつくった藤原佳奈さんのある詩に以前出会い、その詩は私にとって大切なことばとして、ずっとこころの中にあります。

その詩は、こんな詩です。(記憶を頼りに書いているので漢字等間違いがあるかもしれません)

 …

 

僕らはまわる星の上 くるくる悩みながら

広くて狭い星に ばらばらにぶら下がって

昔々も今も あんまりかわりばえなく

泣いてるあの人の その訳を知りたくて

 

ららんららん ららんららん

気づけば飛び跳ねてた

 

今でも飛び跳ねてる

 …

 

 

この詩を歌にのせて初めて聴いたとき、私は、とても励まされるような、勇気づけられるような、自分の悲しみを拾い上げてもらったような、あたたかく包んでもらったような…様々なあたたかい気持ちになりました。

また、この歌は、作品をつくっている人たちの言葉にも思えました。

同じ星の上で、自分と同じようにくるくると悩み、ばらばらでぶら下がっている人たちが、何かを私たちに届けようと、あの手この手で創作し、飛び跳ね、投げ、廻り、踊り、作品をつくっている。

作品を観ることで感じることができる様々な感情…美しさ、儚さ、苦しみ、切なさ、怒り、憤り、温もり、悲しみ、愛おしさ…それら全ては、届けられるべくして創られているんだなと感じました。そうやって創られた作品が私は好きだし、これからも観続けていきたいと思います。

 

 

 

 

今回も、藤原佳奈さんのことばで印象的だったものがあります。

 

 

生んでも 生まれても

その一瞬 静かな後悔がある

一度生まれてしまったものに 戻る穴はない

 

 

あなたと私

挨拶 じゃれあい 嘘 喧嘩 親しみ 恐れ 寂しさ

あるいはその全て

 

あなたと私

二人きりで 踊った

 

 

生んでも、生まれても、一瞬静かな後悔がある

一度生まれたら戻れない

それは様々なことに言えるなと思いました。

自分自身、こども、おとな、ことば、作品、感情、音…。

 

 

そして、他人と交わることで生まれる様々なこと…

挨拶 じゃれあい 嘘 喧嘩 親しみ 恐れ 寂しさ

あるいはその全て…

これらが、私は「こころの手触り」を表しているんだと思えて、

こういった喜びや面倒臭さ、全ての「こころの手触り」が他人と生きる、一人では生きられない、避けては通れないこと…なのではないかと思いました。

 

 

今回のように音声ガイドがあり、ことばを通して作品を観られる機会はそう多くないかと思うので、私はまた多くの言葉をこころで繰り返し唱えながら、作品を何度も観たいなと思っています。

「変化と選択」というテーマのもと、オリジナル版であったり音声ガイド版であったりを観られるので、この作品がより多くの人の目に触れ、変化と選択を楽しみながら、自分の心の動きを感じたり、「こころの手触り」とはなにか想像しながら届くことを強く願っています。

 

素晴らしい作品をありがとうございました。

 

*音声ガイド版(配信終了日 2021年3月21日

theatreforall.net

 

*オリジナル版

vimeo.com

ながめくらしつ「…の手触り」〜こころの手触り〜

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ながめくらしつ連続公演「…の手触り」〜こころの手触り〜 を観させていただきました。

今回は静岡県在住限定での来場可だったため生での公演を観ることができました。

とてもありがたかったです。

 

今回の作品は前回の「…の手触り」〜昨日の手触り〜 の次の作品。

今回の音楽は、前回のピアノ1人とは違いチェロとのアンサンブル。40分ごえの大曲、チェロソナタでした。ラクーンという特殊な空間(廃墟のような、元々人がいたであろう手触りを残した不思議な空間です)のなかで鳴るチェロとピアノの旋律は、とてつもなく美しく、溶け込むような音色でした。

チェロとピアノ、すごくよかったです。

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そして、美術…大きな絵、紐、布、毛糸…どれも素晴らしかったです。

黄色や赤、ピンクを使用した大きな絵。どんなふうに描いたのかなとみながらワクワクしてしまいました…素晴らしかったなぁ。

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作品はひとつの絵巻をぐるりと一周みるような見方で、「変化と選択」がテーマであるとも言っていました。

 

安岡あこさんの息を飲むように美しい踊り。長井さんによって命を吹き込まれた人形たちの繊細な動き。人形がこの空間に産み落とされた瞬間、何か自然とこみ上げるものがあり、私は終始涙がぽろぽろと止まりませんでした。

 

途中、人形の目線になって観たいなと思いしゃがんだのですが、ふと手で床を触ると、びくっとするくらいその感触が敏感に肌に伝わってきました。

そのとき気付いたのですが、観ている私たちは、終始歩きながらその世界の中にいて、その間、誰にも何にも触れない。床を歩く靴の裏以外は、ほぼ何にも触れていない私たちは、時には演者の動作だったり、人形などのモノが触れる感覚だったり、後ろや横から降り注ぐ音だったりをより敏感に感じ取りながら作品を「観て」いるんだなと思いました。(それを「観よう」としてたので、床を触った手も触覚が過敏になっていたのかなと思う。もしかしたら床がめっちゃ冷たかっただけかもしれないけど…笑)

 

そして、前回の作品同様、観ている私たちそのものも作品をつくる一部になっていて、そこにいる全員(他者)の「手触り」に加担しているのかなぁと思いました。

 

だからこそ、今回の1日目、2日目は明らかに感じ方が違ったように思います。

例えば、音楽。音の揺らぎ、出だしの輪郭(これは私の体感ですけど…)、少しの変化でぐっと会場の空気やパフォーマンスの流れが変わっていく。パフォーマンスと音が溶け合う…。

これはどうしても生でみたからこその感じ方になってしまうのかなと思うのですが、この感じ方の違いは、日毎、明らかだったように思います。

それは音楽だけでなく観客の動きでも変化してしまうし、同じ作品でもその時々で生々しく変化するこの作品は、前回の昨日の手触り同様に、究極のナマモノ…だと思いました。

 

この連続シリーズは、今のところこの2作目まで、演者同士、触れることなくきました。

 

今一度「手触り」とはなんだろうって考えてみると、不思議な疑問が浮かびます。

「触れること」への欲はやはり消えないけど、実際に「触れること」は本当に重要なのか…?

触れてしまうことで、単純にわかりやすくなりすぎてしまう。それにより鈍くなってしまう感覚が、「触れない」ことで研ぎ澄まされているのではないか…。

触れてしまったら有耶無耶になる感情。鈍って気づけないような些細な感覚。

自分が体感してしまったら粗末にしてしまうような感覚や、触れたことで安心してしまい薄れる記憶を、「触れない」ことでより鮮明に写し出しているんじゃないかな…なんて思いました。

特に、五感の中でも触覚は、…例えば、普段タオルで手を拭いたり、ドアを開けたり、何かしら触りながら生きているからこそ、鈍くなっていると思う。そのような中で、今何かと触れられない時代だからこそ、観る側の私たちの触覚も、以前より敏感になってるのかなと思いました。

 

「こういうときにしかやらないようなものをつくってみようかな」と、昨日の手触りの時に演出家目黒さんが言っていたので、演出家の意図としては、「触れないこと」にそのような意味を込めてはいないと思うけど、今回の作品をみて、より「触れない」ことと「触れる」ことについて、考えさせられました。

そして、見る側の私たちにとっても、いま観ることで、より感じることが多い作品なのかなと思います。 

 

次回、3作目は、演者同士、触れるのかなぁ。

 

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あこさんのダンス、とっっても綺麗でした。ずっと見ていたくなりました!!

長井さんの人形たちが大好きになりました。また必ずみたいです!

イーガルさんの音楽、やっぱり大好きです。CD楽しみにしてます!

こみてつさんのチェロ、素敵な音色でした。聴けてよかったです!

目黒さんの人形作品。ものを動かすプロフェッショナルがつくる素晴らしい作品でした。ながめくらしつでした。すごく!

 

映像作品の公開もとても楽しみです。

目の見えない方でも楽しめるような素敵な音声ガイドがつくとのこと。

言語化が難しい作品だと思いますが、きっと素敵なものができるんだろうなぁ、と思っています。

 

そしていつか、より多くの人が生でこの作品を見られたらいいなと願います。

素敵な作品をありがとうございました。

 

最後に、長井さんの言葉を借りて。

『人形と、人間の踊り手の共通点は「こころ」ということか…!』

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望月ゆうさく「MOCHI the BEST」

MOCHI the BEST

10月31日(土)19:00〜の公演に行ってきました。

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場所は、みなとみらい。

とっても素敵な会場でした!

音響も、LEDディスプレイも最高。

望月ゆうさくさんのパフォーマンスの良さを最大限引き出してくれる会場だったのではと思います。

 

会場には、これまでの宝物(外国のサーカスや本番のキャスト証?など)、そして私も見てみたかった卒業論文も飾ってありました。

 

今回はクラウドファンディングでチケットを購入したのですが、その達成率も200%を超えていて、いや、すごいな。すごいですよね。

そのクラファンで購入した人は、通常より15分早く会場に入ることができました。

たまたま真ん中が空いていたので、どセンターで観ることができました。

うおおおおおおおおおおおおお(叫)

 

 

本番は、盛り沢山のステージ。

本当に

本当に

盛り沢山のステージ!!!

 

単独公演が始まって思ったんだけど

「単独公演って、マジで一人でやるんだよな」

ってこと(笑)

 

今回は、タップダンサーの米澤一平さん、音楽の竹本仁さんも一緒に出演されていて、3人で素晴らしいステージを作り上げていらっしゃったんですが、やはり、運営、演出、動画制作、音響、照明、フライヤーデザイン…上げたらきりがないんですけど、全部、ゆうさくさんがやったんだな(もちろんご本人もおっしゃっていたように様々な方の協力があってこそだと思います)、と思いました。

尚且つ、約1時間半のステージ。常に自分のパフォーマンスを最大限のパワーとエネルギーで出し切っている姿を見たら、「あ、本当に一人でこのステージつくったんだな」と、感動しました。普通に、それだけでちょっと涙が出たよ。

 

実は、ゆうさくさんは地元の先輩であり、昔から存じ上げています。

私が中学生のとき。毎年地域の夏祭りでは、私の所属していた吹奏楽部の演奏と、ゆうさくさんのやっていたマックというパフォーマンスチームのステージは、大体近い順番で本番をしていました。

吹奏楽の準備や演奏をしながら、横目で先輩たちのリハを見ていました。

(マックの本番は、大体楽器の片付けで見られなかった気がする)

その頃から、ただ技を見せるんじゃなくて、音楽をかけたり、喋りながらパフォーマンスをしていて、チームで「楽しい」を届けていました。

そんなゆうさくさんが、お互い30歳を超えた今、単独公演をしている。それを観ることができた。ずいぶん昔のような、あっという間のような。あの頃から、きっと変わらない心も持ち続けていて、「楽しい」をつくる人だなと思いました。

 

 

今回の公演では、ディスプレイを生かしたパフォーマンスに、芸術とは何かを考えさせられる演目、Blue Bounce、新作に新兵器…などなど多くの作品を観ることができました。

 

特に私は、昔から「Blue Bounce」という作品が好きで。仁さんの音楽も、ゆうさくさんの影も光も好き。

この日は赤いディアボロが多い印象でしたが、この演目で青いディアボロがでてきただけで、私のBlue Bounceスイッチが入った気がします。笑

なかなか影が出しにくい会場だったと思うのですが、角度によってきちんと影も見えて、でもそれ以上に、この作品の前までガンガンに使用されていたディスプレイに映像を映さず暗闇になり、青いディアボロが跳ねたり回ったりする演出が素敵で、これまでとはまた違う新しいBlue Bounceができたのでは…と思いました。よりこの作品が好きになった…。

 

そして、一平さん、仁さんとのコラボも本当に最高だった。

一平さんのタップを聞くのは、零点振動の配信等だけで、生で聞くのは初めてだったのですが、音が綺麗。言葉より言葉。いろんな音がした。いろんなリズムで喋ってた。ほんっとうに楽しかった!(そして、そうちゃんと聞こえる音響の調整もすんばらしい。)

そして、仁さん。PCなどなど機材があり、生でミックス(っていうの?)したり演奏されたり…めちゃくちゃかっこよかったし興味深かった。仁さんの音楽のファンでもあるので、かなり高まりました。ダンスも、よかったです(笑)

 

そしてそして、コロナをきっかけにできた新作。これが、パフォーマンス、音楽共にすごく良かった。多分、Blue Bounceと同じくらい好きな作品になりました。

ゆうさくさんが言っていた「コロナのいろいろをぺって吐き出したような音楽」を「いいよ」と言って創ってくださった仁さん。いろんな何かが音となって、パフォーマンスと共存している。

 

「私たちは生きている」

(↑若干、文が違っていたらごめんなさい)、強い強いメッセージでした。

 

 

コロナをきっかけに、会える人が限られた。

できることが限られた。

行ける場所が限られた。

生きることが限られた。と、私は思った。

(私は、生きるの、結構辛かったよ。)

 

自粛が続く中、この公演に行ける自分を想像もしていなかった。

まだまだ、自粛や予防、気をつけることはたくさんあるんだけど、工夫をすることでこうやって生の公演を観ることができている。皮肉ではあるけど、制限された中で生まれた作品も数多くある。今回もそう。

 

私たちは、生きている。紛れもなく、生きている。

 

会えない、触れらない、見られない、喋れない。

できないが増えていくことで、より感度が上がっている感覚がある。

 

あの日、生の公演を見て、エネルギーを感じることで、私の細胞は喜んでいた、と思う。

 

 

 

せっかくなので、少し恥ずかしいですが、最後に、私の思う「望月ゆうさく」をツイートしたものを載せておきます。

 

https://twitter.com/e_sunflower11/status/1322346698056720384?s=20

 

 

この作品を提げて、世界へ行って欲しい。

彼ならできるし、そうして欲しい。

多くの人に出会うことでエネルギーをもらい、それを還元できる人だから。

より、たくさんの人の前でパフォーマンスしまくって欲しい。

そして、大変だなと思うときには、今回の公演を思い出して欲しい。

日本には、応援する人も支えてくれる人もいる。

(言い方が偉そうになってしまったらごめんなさい)

 

さらなる活躍と、もちパワーに期待です!

 

 

とても楽しい公演でした!

ありがとうございました。